伏見町は豊臣時代に大坂に移住した京都・伏見の町人に因む町名です。江戸時代には中橋筋から心斎橋筋までを伏見町、心斎橋筋から魚の棚筋までを呉服町といい、諸大名や豪商などを相手に、茶道具などの道具商とともに、舶来品を扱う唐物商が数多く集まっていました。明治以降は、新しい実業家や資本家を相手に、古美術・骨董品を扱う道具商で賑わいました。
江戸時代から伏見町に軒を並べていた道具商により、幕末から戦前にかけて、盛んに古美術・骨董の売買が行われました。大正2年(1913)に大阪美術倶楽部ができるまでは、伏見町が入札会場となり、堺筋から御堂筋あたりの木戸を閉め、外部からの出入りを止めて、各店で古美術・骨董の展覧を行い、札元(主催者)が入札箱を持って各店を回ることもありました。
唐物とは、もとは中国からの舶来品をいいましたが、後に広く異国からの舶来品全般を総称するものとなりました。伏見町には、長崎からの輸入品を一手に引き受ける唐物商が数多く集まり、賑わう店先の様子が絵図にも描かれています。芝川家も幕末の唐物商で、その屋敷内に昭和2年(1927)に建設したのが、古代中南米風のデザインをまとった芝川ビルです。