江戸時代は越後屋(三井)を筆頭に、大呉服商、両替屋、書肆、紙屋、苧屋などが多く、大変にぎわった通りでした。通りの名前となっている高麗橋は、東海道五十三次と京街道四次を合わせたいわゆる「東海道五十七次」の終点で、東側の武家まちと西側の商人まちを結んでいました。橋の名前の由来は、高麗橋が朝鮮国使来朝のために架けられた橋という説と、かつて難波高麗館が橋の東にあったためという説があります。