他の通りと違って幅の狭いこの道路は、高麗橋通と今橋通に面する建物の背割下水(「太閤下水」と呼ばれる)の上を道路にしたものです。江戸時代初期、この狭い通路に面して風呂屋、楊弓場、質屋、三絃法師、謡曲師匠宅、船場の旦那や番頭衆の妾宅などが建ち並び、浮世のありさまを見渡す風情から浮世小路と呼ばれ、今にその名を残しています。